鉄道模型道楽

2005年5月10日

小学校の頃、祖父母の家に遊びに行った時には、この叔父が高校から帰って来る前を見計らって、叔父の「鉄道模型」を引っ張り出して遊んでいた。 その後、中学校に進んだ頃、初めて鉄道模型らしい模型を作った。 ペーパー製の自由型電車で、色は当時住んでいた神戸を走っていた阪急電車に模したマルーンだった。

その後、高校、大学と進んで行った頃には「鉄道模型」からは遠ざかり、アンプ作りをしていた。(オーディオの部屋へ)

鉄道模型への復帰は、就職して後大阪に転勤した頃であった。 会社帰りに大阪梅田の旭屋書店に寄り道をした際、同じビルに入っていた「マッハ模型」の看板を見てふと覗いて見たのがことの始まりであった。 それからは、月刊誌の「鉄道模型趣味」(以下、TMS)を購読し始めた。 蒸気機関車の製作に手を染めたのは、結婚して間もない頃だったと思う。 当時、住んでいた堺市にある泉北ニュータウンの団地の一室で蒸気機関車の製作を始めた。 その当時TMSに掲載されたB?6の特集を見たことによる。 好きなB?6の図面や坂本衛氏の2120の製作記事を見て、何とか出来るのではないかと思った。又、中尾豊さんの発表された「蒸気機関車のいる周囲」と題するセクション・レイアウトのコピーを作ろうともした。

この時製作したB?6や製作途中の9600は今でも残っている。 今改めて見てみると、造りは雑だし好い加減な代物であるが、糸鋸とヤスリだけでよくやったと、今でも捨て切れずにいる。

9600の製作を途中で放棄した後、私の「道楽」の対象は「釣り」に移って行った。それ以降、約30年間の間蒸気機関車の製作は中断したままになっていた。

私が現役を退いた後も、「釣り」が「道楽」であり続けることが出来るか、そんな疑問を抱き始めた頃、会社帰りの書店でふと見掛けた「蒸気機関車の写真集」を手に取った時に、何かが弾けた様な気がした。 気が付いた時には、その写真集を買い求め、家の万年床で腹ばいになって見ていた。 有名なD-51やC- 62の写真・・・・。 釣りを始める前に製作したことのある、ことの他気に入っている懐かしい蒸気のB-6や9600の写真があった。

釣りに没頭する様になってからであるが、長男が物心ついた頃に、長男のおもちゃにする口実でNゲージの模型を買い与えたこともあったし、自分でも改造に手を染めたこともあった。 Nゲージの蒸気機関車を集めたこともあった。 NゲージのC62を始めて見た時にはNでもここまで出来るのか、と感動を覚えた事を記憶している。 B-6を店頭で見た時には、思わず購入していた。 9600も買った。 今でもこれらの機関車はプラスティックのケースに入れたまま大事に保管している。 結局、釣りに夢中になりながらも、蒸気機関車の事はいつも頭の片隅にあったことになる。

この様な状況であったので、写真集を見て、もう一度蒸気を作って見たい、そんな気持ちが湧いて来たとしても不思議はないと思う。 と云っても、模型界の現状、特にパーツの供給状況が分からなかった。そこで、インターネットで鉄道模型関係のHPを片端から覗いて見た。 皆さんの素晴らしい作品に手招きされているような気持ちになった。 一方、今も昔も変らず蒸気機関車の動輪の入手が困難であることを知らされた。 Niftyのフォーラムにも、しかと覚えてはいないが、このあたりのことを書いた。 これに応えて呉れたのがKKC会員の坪山氏であった。 その後氏とは何度かメールの交換をさせて頂いたし、氏も札幌在住とのことで、一度お目に掛かりたいと申し入れをした。 快く受けてくれた氏との最初のデートとして指定された場所は、札幌の「いさみや」であった。 いかにも鉄道模型の愛好家らしいところである。 そして、模型界の現状を教えて頂いたり、氏が所属しているKKCの会報のバック・ナンバーを拝借し、KKCにも紹介して頂いた。その後暫くしてから、坪山氏から「KKCの今野氏に連絡をしておいたから、直接メールを入れて入会希望を伝えるように」とのメールを頂いた。 早速、今野氏にメールを書かせて頂き快く承諾をして頂いたものの、今野氏を始めTMSに素晴らしい作品を発表されている方々が会員に名を連ねていらっしゃることを知り、少々どころか多いに気後れを感じた。 この年(2001年)は他にも3?4名の新入会員がいらっしゃった様であり、KKCのバック・ナンバーが新入会員に回覧されて来た。 しかも、新入会祝いとしてアンビルまで同梱されていたのには、多いに感激をし、有り難く頂いた。 丁度、この頃相前後して、珊瑚からB-6のキットが発売された。 値段も比較的安かったこともあるが、あの痛くお気に入りのB-6であることが決め手になって、珊瑚模型に注文のFaxを入れた。
坪山さんにお目に掛かったこと。
KKCの会員に加えて頂いた事。
B-6の発売。
これらが、重なって模型蒸気機関車の製作を30年振りに再開することにした。 と公式的にはこの様になるのであるが、実の事を云うと、インターネットでHPを覗き回った頃には、既に気持ちが固まっていたと云うのが正直な所だと思う。

再開するに当たって、ゲージをどうするか迷った。 自作であるからNは最初から対象外としたが、1/80の16.5mm、13mm、1/87の12mm、はたまた、丁度その頃に発表された1/150のTT9のどれを採用するか? 当初は、寺崎浩氏のHP「1/87日本型鉄道模型の世界」の表紙を飾っていた「羽鶴の1080」に惹かれたこともあって、1/87の12mmが最有力候補であった。 このゲージは当初から日本型鉄道模型を前提とした規格のようで、何よりも車輪の厚みが2mmと薄い事が気に入っていたし、狭軌感がよく表現されている(珊瑚のHANAシリーズが1/87であることは、後に知った)。 ところが、市販されているパーツ類の種類が余りないらしい。 結局、その昔、白鳥さんが試験的に採用された13mmC-56の印象が強かったこと、パーツ類も1/80の所謂16番のパーツがそのまま利用出来る事から、13mmを採用することにした。 又、旋盤を購入する事を決めた。再開するならどうしても本格的な工作をしたいと考えたからである。

単身赴任先の北海道から東京への出張の折、横浜の留守宅から札幌に持ち帰った僅かな工具で、珊瑚のB-6(2500)キットの組み立てを開始した。 一人住まいなので、途中の状態で放り出していても、誰も苦情を云う者がいない。 帰宅後少しでも時間があれば、半田鏝を握った。 昔はペーストを使っていたのが、今は液体のフラックスに変っていた。 半田鏝を当てるとジューッと音がして、半田が液体の様に綺麗に流れる。
キットの完成度も高かった。高級プラモデルと称したいほどで、何種類かのヤスリと半田鏝があれば、何の手直しの必要もなく組み上がっていた。こうして、B-6が金色の地肌の状態で、一応の完成を見た。 漸く街の雪も融けて消え、白樺の透き通った様な若葉の緑が目に眩しくなる頃、東京・帰任の話が出て来た。 北海道での渓流釣りシーズンを目前に控えての転勤に少々気落ちした面もあったが、仮に半年遅い転勤であっても、今度はスキー・シーズンが目前。 結局、いつ転勤になろうが北海道から離れ難い点では変らないと、諦めて戻ることにした。 折角知り合いになれた坪山氏から思わぬ選別を頂いた。 かの有名な鉄道模型社のエッチング・キット2800。 本当に短いFace to Faceでの付合いだったのに、有難いこと。 いつの日かこのキットを組み立ててKKCで発表させて頂こうと決心した次第。

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