釣り道楽
2005年5月10日
本格的に釣りを始めたのは27才の頃だった。 丁度、長女が1才を迎えた頃だったと記憶している。 娘をベビ・カートに乗せて女房と三人で住まいの近くの野池の畔を散歩していた時に、釣りをしている人を見掛けたのが切っ掛けだった。 散歩から戻ると近所の釣り道具屋にとって返し、釣り道具を一式買い揃えてその野池に直行したのが始まりだった。 それ以来、途中、海外赴任や仕事の事情で一時的な中断はあったにしろ、30年もの間、魚を追い掛けて来た。 大阪・堺での野池の「へら鮒」に始まり、山中湖や河口湖での「ブラック・バス」、北海道での「岩魚や虹鱒」。
体質的に酒の飲めない私にとって唯一の息抜きの場が「釣り」であった。 土曜日は「釣りの日」と決めて雨の日も風の日も釣り場に通った。金曜日の夜、会社から帰っていそいそと釣り支度をし、夜明け前から、場合によっては夜中から家を抜け出し、土曜日は目一杯釣りをして来るのが、私にとって一週間の締め括りの行事となっていた。 そんな私を、家内はきっと呆れて見ていたに違いないし、今ではもう諦めてしまったのだろう。 こうして、週に一度の「釣り」は、公認の行事となった。 現役引退後は「釣り」をして過そうと、10年以上も前に千葉の田舎の利根川近くに土地を買った。 私生活の面では「釣り」が中心であった。映画の「釣り馬鹿日誌」の主人公ほど極端ではないにしろ、釣り馬鹿と呼ばれても仕方のないほどであった。
私の「道楽」の共通項は前述の通り「物造り」である。 「釣り」と「物造り」は全く別物の様に思えるかも知れないが・・・・・。「へら鮒」の時は、孔雀の羽や茅を材料にして何本もの浮子を作った。 浮木のボディーはカシュウの研ぎ出で模様を浮き出せた。 不安定な釣り座に設置する釣り台、竿掛けや万力も自作した。 「ブラック・バス」の時はバルサ材を買って来てルアーを作った。 会社からの帰宅後ラッカーで色付けしては机の横にぶら下げ、その翌日の帰宅後にはウレタンにどぶ漬けし、同じ様に机の横にぶら下げて仕事に出掛けた。 家の中は常にシンナーの臭いが漂っていた。 幸い、家内は「うるし屋の娘」だったので、シンナーの臭いでクレームが付くことはなかった。
1998年のある日、北海道への転勤命令が出た。 中央から地方への移動であるから、嫌がるサラリーマンが多いと聞くが、小生は逆に喜んだ。 北海道はフライ・フィッシングのメッカ。 そんな所に、会社の金で行かせて貰えると聞いただけで、自然と頬が緩んで来るのを禁じ得なかった。 それこそ「釣りバカ日誌」の主人公?浜ちゃんの心境だった。 北海道では、フライ・フィッシングで「虹鱒」を追い掛け回していた。 「へら竿」を潰してフライ・ロッドを造った。 グリップは「へら竿」と同じ様に「籐」を巻いた。 名実共に世界で只一つの愛用のロッドであった。 フライ(疑似餌)を巻くのは当然のことだった。 通常、如何に自然会に居る昆虫を模すかが、フライ・フィッシャー・マンが意を砕く所であるが、私は近視や乱視の度の強い自分の視力に合った大きさや色使いをし、魚の都合よりも自分の都合を重視した。 これなどは自作する者の特権だと思う。兎に角、作れそうな物は何でも自分で作って見なければ気が済まなかったし、作るからには、市販品に負けないものを常に作ろうとしていた。
フライ・フィッシングやスキーで心から謳歌していた北海道での単身暮らしも終盤に近付いて来た。 会社からの帰京命令が出るのも時間の問題となり、永い永いサラリーマン生活も漸く終盤に近付き、定年退職の日が視界に入って来た。 定年退職後は如何にして余生を過そうかが、いつも頭の中に浮ぶようになった。 当然、30年も続けて来た「釣り」が第一候補であった。 だが、ある時、フッとある疑問が湧いて来た。毎日、釣りが出来る状況になっても、釣りは楽しいのだろうか?毎日、毎日釣りをしたいと思っても、現実には一週間に一度しか出来ない。 不本意ながら、月曜日から金曜日まで会社に拘束されているからではないのか? 机に縛り付けられた自分が完全に解放されることが待ち遠しいのであって、釣りはその開放される為の手段ではないのか? 歳をとってからも、釣りを続ける体力はあるだろうか? 徹夜で車を飛ばして行く元気は残っているだろうか?・ ・・・・・。考えれば考える程、自信がなくなって来た。 30年も続けて来た「釣り」なのにである。
自身では人後に落ちない釣り好きだと思っては来たものの、この有様である。
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