<コンピュータ道楽>

2005年5月10日

「物造り」と「コンピュータ」との関連性に疑問をお持ちになる方があるかも知れない。 最近では人口も非常に多くなっているが、「コンピュータの自作」は文字通り「物造り」である。 更に、プログラミングも、言語を組み合わせてコンピュータを制御するプログラムを作るのであるから、これも「物造り」のカテゴリーに入ると思う。 年齢と共に根気がなくなって来たので、最近では全くプログラミングをすることはなくなってしまったが、つい5年程前までは、Pascal系のDelphiを使っており、会社で使う会計システムを作り上げたこともあった。

と云うことで、私の中では、「物造り」と「コンピュータ」は立派に関連付けられるのである。

私が、何らかの形でコンピュータと関わりを持ったのは、就職した会社でのことであった。 当時、最新鋭と云われたIBM?360を会社が導入し、会計処理をコンピュータ化した時期で、Management Information System(MIS)が云われ出した頃である。 このコンピュータは空調の良く利いた部屋を与えられ、従業員よりも手厚い待遇を受けていた。 私は直接このコンピュータを管理する部署ではなく、ユーザーの立場であったが、真夏の暑い日などは、仕事にかこつけてよくコンピュータ・ルームに避暑をしに行ったものである。 入力媒体と云えば質の良い厚紙に縦8桁+2桁、横64桁のパンチ・ホールが空けられる仕様のもので、そのしかるべき所に空けた穴を読み取ってデータとしていた。 会社でのCOBOL講習会を受講したこともあるが、基本的にはそんなに身近な存在ではなかった。

入社して6年目の1974年に海外勤務となった。 その2年後位の時期であったと思う。 米国の雑誌にコンピュータの記事が載っており、活用事例の紹介があった。 その雑誌にはタンディーやコモドールの今で云うデスク・トップ型のコンピュータの写真があり、会計関係の処理をしているとある。 この海外勤務では現地資本との合弁会社で、会計関係を担当していたこともあって、このコンピュータが使えないかと検討し、本社にお伺いを立てた。 この頃、コンピュータと云えば所謂大型機が全盛で、本社からの回答は、残念ながら「こんなおもちゃじゃ何も出来ない」とのことであった。 目の付け所は良かったが、時代が早過ぎたのかも知れない。 以降、5年後の1979年に帰国するまで、コンピュータとは何の縁もなかった。

帰国後、初めて自分のコンピュータを持った。 家内の実家があった秋葉原の電気街をブラついている時に、シャープのPC-1250と云うポケコンの街頭宣伝販売を見掛けた。 その時は何も感じてはいなかったのだが、一旦実家に戻って暫くして妙に気になり出し、再度その場所に出掛けた。 その帰り道には、オプションのプリンターと共にしっかりとPC-1250が手の中にあった。 これで何かをしようとする目的はなかったが、何かが出来そうだと思った。 当時、BASICが話題になり始めた頃でその勉強になるかも知れないとの思いもあったが、容量が少ないため大したことは出来なかった。

次に手にしたコンピュータはNECのPC-8001であった。 これは会社の取引先銀行の営業マンが富士通のFM-8に乗り換えたいので引き取って欲しいと云って来た結果、引き取ったものである。 流石にPC-1250よりは、ずっとコンピュータらしいものであった。 メモリーは標準で16Kだったと思う。 オプションの増設メモリーを購入して32Kにしたが、メモリー空間が劇的に広がった様な感激があった。 この頃はBASICの全盛時代で、ASCIIやI/Oと云ったパソコン雑誌に掲載されているゲーム・プログラムを訳も分からず片っ端から打ち込んだ。 打ち込んでは自分の好みに書き換えるなどしていた。 これがBASICの勉強になった。 会社では、午前中に本来の業務を行い、暇になる午後からはフローチャートなどを書いてコンピュータの勉強をした。 メモリー空間が32Kに広がったとは云え、BASICでプログラムすると不足する場面がかなり出て来た。 そこでASSEMBLERにも手を出した。

この頃の外部記憶装置と云えば、カセット・テープがパソコンでは一般的であったが、書き込み・読み込みエラーが絶えなかった。 ある時、秋葉原の家内の実家に遊びに行った際覘いた九十九電気でフロッピー・ディスク装置のデモを見た。 「FILES」と打ち込むとファイル・リストがサッと緑色の画面に現れて来る。 しかもそのリストから好きなファイルを自由に選択することが出来る。 これには驚いた。 と同時に早速購入しPC-8001に接続した。
コンピュータの世界は、「日進月歩」ならぬ「秒進分歩」と云われる位に進歩が早い、と云っても、現在程ではなかった様に思うが、メモリーを増設し、フロッピー・ディスク装置を装備して、私のPC-8001は快適な環境になった筈であるが、使えば使うほど物足りなくなって来た。

次にPC-8801に乗り換えた。 CPUはPC-8001と同じZilogのZ80A系列であったが、メモリーは最初から64K、グラフィックが扱えるのが売りであった。 このPC-8801は、その後mkⅡ云々とマイナー・チェンジ機種が次々と発売された。 どう云う訳か、この機械についての思い出は余り残っていない。 次に乗り換えたPC-9801の印象が強いでいかも知れない。

今までの機械は、所謂8ビット・マシーンであったが、いよいよ16ビット・マシーンが発売された。 Intel8086を搭載したPC-9801である。 この機械に乗り換えるに当たって、OSをどうするか迷った思い出がある。 8ビット次代にもDigital ResearchのCP-Mと云うOSがあるにはあったが、これまで使っていた機械にはBASICが搭載されており、このBASICがOperating System(OS)の機能を持っていたので、特にOSを意識することはなかった。 しかし16ビットになってOSをどうするか? Digital  ResearchからはCP-M(86)版がリリースされ、MicrosoftからMS-DOSがリリースされた頃である。 かなり迷ったが、結局BASICがMicrosoftのものであると云う理由でMS-DOSをOSとして採用した。 この後、同じPC-9801系のPC-9801F、PC-9801BXと乗り継いで来た。 PC-98LTをセカンド・マシーンとして所有していた時期もあった。

PC-9801に機械が変わった頃から、本格的なプログラミング言語を使い出した。 C、C++、Pascal等のCompilerである。 このPC-9801以降、PC-9801F、PC-9801BXと乗り継ぎ、NEC一辺倒であった。

世の中の流れがMS-DOSからWindowsになって、コンピュータの自作を始めて行った。 PC-9801は16ビット・マシーンであったが、NEC独自のアークテクチャーを採用しており、世界標準であるIBM Dosマシーンとは違っていたこと。 WindowsをPC-9801に乗せるには色々と問題が取り沙汰されていたこと。 市販のパーツを組み合わせてコンピュータを自作する事例が増えて来たこと、などから自作に踏み切った。 CPUはPentiumの100MHzを使ったものであった。 この頃には、通産省の情報処理技術者試験にもパスしたし、この頃がコンピュータについては最も充実していたかも知れない。

転勤先の北海道には、Shop Brandのラップ・トップを持って行ったが、マルチ・メディアの時代に移りスピードの遅いのが気になりだしたので、SONYのVAIOを購入した。 この機械のメモリーを増設し、帰京して後も使っていたが、拡張性は全くなく、2台目の自作となり、これが現在の機械である。

コメントする