<オーディオ道楽>

2005年5月10日

私の「物造り」への興味は、母方の一番年下の叔父によって触発されたと云って良いと思う。叔父が「鉄道模型」や「ラジオ」を作ったりしているのを見て、私のDNAは目を覚ました。

小学校4年生の頃だったと思う。 「子どもの科学」と云う雑誌に掲載されていた「ゲルマニューム・ラジオ」の製作記事を見て作りたいと思った。 材料を買うために「日本橋」(東京で言う「秋葉原」の様な電気街)に、叔父に連れて行って貰い、祖父母の家に帰って半田鏝の使い方を始め作り方を教えて貰ったのが、最初であった。 このラジオの感度は悪いものであったが、電池も要らず今で云う「省エネ」タイプのラジオであった。

この後、暫くは「鉄道模型」に興味の対象が移っていたが、中学校の実習の時間に4球のラジオを作ったのが、オーディオへの入り口だった。 ラジオの機能は大きく二つに区分される。 つまり、電波を受信し可聴周波数に変換する高周波部分と、変換された可聴周波数を音にする所謂低周波部分であり、ラジオの製作に興味を持った者は、通常その後の進路が三つに分かれる。一つは高周波部分に特化する者であり、彼らはアマチュア無線などの方面に進む。これに対して低周波部分に特化する者は、アンプ作り方面である。そして三つ目の進路は、そのどちらに対しても興味を失いこの世界から出て行く者である。小生はその内、低周波部分に進んだ。

当時、NHKラジオでステレオの実験放送を行っていた。 二台のラジオを左右に並べ、どちらがNHK第一放送でどちらが第二放送だったかは忘れたが、メトロノームか何かの音を二台のラジオの中央から聞こえて来る様にボリュームを調整して聞いていた。 今にして思えば原始的な方法であったが、それでも音の広がりや効果音の左右の動きは驚きだった。 この実験放送がアンプ作りに進む切っ掛けだったのではないかと思う。

高校2年か3年の頃だったと思う。 あるいは1年生の時だったかも知れない。 親にレコード・プレイヤーを買って貰った。 プリーでターン・テーブルを駆動するもので、クリスタル・カートリッジを付けた安物だったと思うが、このプレーヤーをラジオに接続して聴いていた。 この音楽を良い音で聴きたいとする思いで、アンプを作りスピーカー・ボックスの自作をした(材料明細)。 アンプは6BQ5のPP(回路図)、スピーカーはパイオニアの16cmフルレンジ(パンフレット)であったが、兎に角、小生のオーディオの道楽が始まった。

高校を卒業して大学に進んだ頃、学校からの帰りに、面白いアンプの回路図を駅の近くの本屋で見付けた。 当時は、この回路図だけのために雑誌を買う余裕はなかったので、立ち読みをして頭に叩き込み、家に帰って後ノートに書き写した。 3極の双極管である6BX7を使ったシンプルな回路で(回路図)、この管二本でステレオのPPが実現出来るものであった。 流石に3極管の透明で柔らかい音を出して呉れたが、電源トランスなどの主要な部品の殆どは、それまで使っていた6BQ5のアンプからの流用であったので、容量が不足気味であった。 夏などは電源トランスが熱くなり扇風機の風を直接当てて、本人は汗を流していた。
トランジスターを使ったアンプの製作記事が雑誌に載り出したのは、この頃だったと思う。まだまだ値段も高く熱に弱いことから、半田鏝の熱でトランジスターを壊してしまうことを恐れて、トランジスターには手を出さなかった。6BX7の音で満足していたことも理由の一つだったと思う。

メーカー製のトランジスター・アンプの発売はソニーが最初ではなかったかと思うが、新し物好きの従兄弟が早速買ったアンプを聴かせて貰った所、非常に音が硬く感じられ、それ以降長年にわたってトランジスターは敬遠していた。

社会人になって6年目に海外勤務となったのを機に、トランジスター・アンプを購入した。 型番は忘れたがオンキョーの製品だった。 ターン・テーブルはパイオニアのダイレクト・ドライブ。 正に「道楽」の所以だが、金がない割には結構良いものを揃えていたと思う。 このセットを海外の赴任地にまで持参したが、当然のことながら日本とは電圧が異なる。 スライダックで電圧を100Vに落として使っていたが、今にして考えれば随分と乱暴なことをしていた。

海外勤務時代のオーディオに関する思い出は、ダイレクト・カティング・レコードとチーク材で作ったエンクロージャーに尽きると思う。 
通常のレコードは、数多くのマイクで拾った音を左右の2CHに収斂させて原盤を作るのであるが、その過程でどうしても音の輪郭が甘くなる。 これに対してダイレクト・カティング・レコードは、音源を左右2本のマイクだけで拾って直接原盤を切ったもので、途中経過が少ない分だけ不純物が混入することが少ない。 云って見ればバチが太鼓の皮に触れる瞬間が見事に感じられる程、その音の素晴らしさは驚嘆ものである。
エンクロージャーは、長岡鉄夫氏の「オーディオ日曜大工」を日本から取り寄せ、記事を参考に自分で設計したバック・ロード・ホーンのトール・ボーイである。 これは、最初にチーク材を買い集め自作して音を確かめた後、現地の家具屋に作らせた。 スピーカーはフォステクスの20cmフルレンジで、少しボリュームを上げると好きな太鼓の音がズ?ンと鳴り、非常に気に入っている。
5年間の海外勤務を終えて帰国して、YAMAHAのチューナーとアンプを買った。 1979年の帰国であるから、かれこれ25年間使っており、今となっては骨董品的な存在である。 このアンプをA級で動作させ、先のチーク材で作ったスピーカー・システムをドライブしている。 只、残念なのは、日本に帰ってから殆ど出番がない点である。 少しでもボリュームを上げ気味にすると家族からのクレームが出るし、部屋が狭いのでいた仕方ない所であるが、落ち着いて音楽を楽しむ環境でなくなった。 海外で蒐集した20枚位のダイレクト・カッティング・レコードやターンテーブルは、帰国後ズーッと、押入れの片隅に追いやられていた。

こうしてオーディオからは、自然と足が遠くなって行き、「釣り」にのめり込んだ。

1998年に北海道での勤務を命じられ、単身での生活が始まった。 夏は「渓流釣り」、冬は「スキー」と北海道生活を謳歌したが、独りで過ごす時間に静かに音楽を楽しもうとBOSEのStageSideSoundのセットを揃えた。 これまで音楽を聴く場合の音源としては、トランジスター・アンプの音を聴いた時と同じ印象を持っていたので、CDを否定していたのであるが、気軽に扱えると云う理由から主としてCDが音源に変わった。
4年後の2002年5月に帰京命令が出され、泣く泣く帰って来たが、現在YAMAHAとチーク材のトール・ボーイは本宅に、BOSEは別宅に設置している。

又、押入れの肥やしと化していたダイレクト・カッティング・レコードとターン・テーブルは、北海道で大変お世話になった方・・・・この方は今でも真空管アンプとアナログ・レコードを楽しんでおられる・・・・にお譲りした。

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